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@「第一章 いざ籠城」(まつり開会:城門前)
時は、慶長5年(1600年)7月(関が原の戦いの2ケ月前)
城門が閉じられた場面で、武者が駆けつけてきて、大阪で石田三成軍が兵を挙げ、
ガラシャ様※が、屋敷に火をつけ自害したこと、
田辺城めがけ15,000の兵が進軍していることを報告します。
幽斎公は、籠城を覚悟し、丹後の各城に武具、弾薬を田辺城に集めるよう報せを走らせ、
各地から武士が馳せ集まってきます。
以上を芝居仕立てで説明しています。
※本名「たま」キリストの洗礼を受ける。忠興の妻、明智光秀の娘
A「寄進米みこし」(まつり開会:城門前)
この時、「田辺城に西軍15,000が攻め寄せる」との報せに、
町衆が米を寄進した故事を基にしたイベントです。
北は吉原の水無月神社、西は西町見樹寺、南は朝代神社と旧町内にある神社仏閣で
舞鶴の発展と市民の幸福を祈願し、米俵みこしを担いで2時間余り走り回り会場に帰ってきます。
各町内では、盛大な出迎えをして頂いておりますが、町内を訪れるのが遅れるとその町内は、
この公園への出発が遅れ、大変な迷惑をかけることになってしまいます。
果たして各町内の出発に間に合うことが出来るでしょうか!
この田辺城まつりをはじめた当時、
市民、各自治会は、市民まつりとしての価値・認識及び参加意欲が低く
その改善が求められました。
そこで考え出されたのが、この寄進米みこしです。
こちらから押しかけワイワイがやがや勝手にさわぎ、
市民・町内会を有無を言わさず巻き込んでいきました。
初回(第3回から実施)は、出迎えもなく淡々と各町内会を廻るむなしさを
感じるものでしたが、回を重ねるにつれ、町内太鼓の出迎え、お酒やつまみの接待、
清めの水の用意と歓迎してもらえる町内会が増え、みこしを担いでるものは疲れた体に鞭打ち
「がんばらねば!」と力をもらったのでした。
しかし、1時間半から2時間を軽いみこしではありますが、
担いで約4キロ走破するのはつらく、担ぎ手がなくなり、
とうとう第10回田辺城まつりを最後にやめていましたが、
第15回を機に、舞鶴海上自衛隊のご協力を仰ぎ復活しました。
長く途絶えていた為、往年のような各町内会の出迎えはまだ復活してはいませんが、
沢山の人でお酒有り、ビールあり、ちくわ、かまぼこ、おにぎり等沢山のもてなしで
出迎えていただきました。自衛隊員のなかには、感激で涙するものもありました。
お酒を飲んでは走り、呑んでは走りグデングデンになりながらも
なんとか各町内出発の時刻には到着し、祈願のお札を渡し、各町内の氏神さんへお参りし、
無事任務を果たしました。
B「第二章 心種園小芝居 古今伝授」(公園あやめ池) 協力 神心流尚道館匂崎教場
兵わずか500で籠城。
約2ケ月間この地に敵15,000名を釘付けにし、
関が原の戦いを有利に導きました。
又、幽斎公は、古今伝授の唯一の継承者であったため、
朝廷が使者を遣わし、この田辺籠城戦を収めた戦いでもありました。
心種園脇あやめ池の中島の松を古今伝授の松に見立て、
籠城の最中に行われた幽斎公と和睦を勧めにきた朝廷の使者との芝居。
詩吟の会の協力で古今伝授の際の和歌詠みも迫力のあるものに仕上がっています。
C「第三章 御城下大行列 総登城」(城門前)
籠城が終わり、関が原の戦いも勝利し、忠興公も凱旋。
その勝利を祝い 市中を凱旋行列するという設定。
町内太鼓、子供みこし、チビッコ武者 鎧武者等を加え総勢1,000名余の行列。
城門前を出発し西駅から商店街を回って帰ってきます。
ホームページ管理者:米山隆一朗
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